注:ネタバレを含んでいます
電脳コイルの最終話を見終わりました。
元々のきっかけとしては、「VRやARに興味があるなら、電脳コイルは見ておいたほうがいい」という評判をTwitterで見かけたからです。
実際に見始めてみると、前半は平和なパートが多かったので、それほど熱中せず作業のついでに横で流していたくらいでした。
しかし、最終的にはすっかり引き込まれてしまい、最終話付近では何度も涙してしまいました。
本物こそが素晴らしい?
最終話付近で、もっとも印象に残ったのは、「本物とは何か」という問いです。
例えば、ヤサコの母が、ヤサコを抱きしめて「柔らかい?暖かい?これが本物なのよ」と話すシーンがありました。
電脳ペットのデンスケを失った気持ちを汲み取りつつ、母として娘を励ます、とても良いシーンだったと思います。
また「手で触れられる、本物の世界こそが大切だ」という、メッセージの1つとしても捉えられるでしょう。
同じようなメッセージを含んだものとしては、レディプレイヤー1のラストも思い起こされました。
主人公は、最後にはVRワールド「OASIS」の共同経営者となりますが、「現実世界にも目を向けてほしい」と、週に2日はOASISを休みにしていました。
VRやARが題材の物語では、最終的に「現実(リアル)は、こんなに素晴らしかったんだ」という気づきにつなげるパターンが、1つの定番になっています。
しかし、電脳コイルの場合は、そこで終わらせず「じゃあ、本物って何?」と問いかけます。
本物とは何か
電脳ペットのデンスケを失ったヤサコは、一度は「ただデータが消えただけ」と、デンスケの死に納得しようとします。
ですが、そこでの心の痛みや悲しい気持ちは、紛れもない本物として描かれていました。
たとえ現実のものでなくても、確かな想いが介在するのであれば、それは本物じゃないか。
電脳コイルからは、そのようなメッセージを感じて、とても考えさせられました。
たしかに、わたしたちが「現実」や「本物」と呼んでいるものは、そこまで確かなものではないのかもしれません。
VRについて学んでいれば、「現実とは、人が感覚器官というフィルターを通して知覚したもの」という解釈を目にすると思います。

- 作者: 舘暲,佐藤誠,廣瀬通孝,日本バーチャルリアリティ学会
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つまり、現実というものがあったとしても、わたしたちは、あくまでも世界をフィルター越しにしか見ていないのです。
だからこそ、わたしたちが「現実」や「本物」と呼ぶものが、必ずしもそうであるとは限りません。
想いこそが本物である
VRペットのデンスケは、普段電脳メガネをかけて過ごさない母にとっては、「ただのデータ」にしか見えていなかったのかもしれません。
しかし、幼少期からずっと一緒に過ごしてきたヤサコにとっては、紛れもない本物の家族なのでしょう。
ARペットがどのくらい本物と思えるのかは、作り込みのリアルさや、一緒に過ごした時間に影響されるのかもしれません。
わたしも、VR空間でカメに餌やりができるコンテンツを作っていたので、デンスケに関しては色々と思うところがありました。
カメにエサやり体験できるVRを作りました。基本何でも食べますが、苦手な野菜もあるようです。あと、唐辛子を食べさせるのはNGです。 #VR #OculusQuest #Unity pic.twitter.com/ie8eivpTkm
— tamu (@tamusan100) 2019年8月12日
もちろん、わたしはこのカメのことを、本物のペットのように思ったことはありません。
しかし、テクノロジーが発達して、このカメが本物そっくりの挙動をするようになったら?
そして、現在のVRのような専用のHMDをつけることなく、ARグラスという形で限りなく日常生活に溶け込んでいたとしたら?
そこまでいけば、見える人にとっては、紛れもない「本物」と呼べるようになるのではないでしょうか。
もしも、自分がデンスケのようなARペットを飼っていたのだとしたら、亡くなったときは本物のように悲しむと思います。
おわりに
電脳コイルは、「本物とは何か」を考えるきっかけをくれたと同時に、「たとえ実体がなくとも、想いが介在すれば、それは本物ではないか」という1つの回答を示したかのように思います。
もし、VRやARに興味を持つ方で、まだ電脳コイルを見ていない方は、ぜひ見てみてほしいなと思います。
そして「本物って何だろう?」と考えてみてはいかがでしょうか。