これは前から書こうと思っていたポエムなんだけど、デザインを「狭義」と「広義」で分けることが、あまり好きではない。
Twitterを見ていると、たまに「狭義のデザイン」「広義のデザイン」という言い方を目にすることがあって、その度にモヤモヤしていた。
こうした言い方が出てきた背景は何となく分かっていて、デザイナーの役割の変化であったり、潮流として「もっと上流に食い込んでいくべき」という考え方があるからだろう。
プログラマーが、ひと昔前まではSIerという受託構造だったものが、内製化の流れで役割が変わったことと似ている。
デザイナーも、ひと昔前では広告代理店や制作会社という形で受託構造だったものが、今ではIT企業をはじめ内製化されていっている。
従来までは制作そのものが価値として認識されていたが、事業会社のインハウスデザイン組織では、デザインの価値をあらためて証明する必要がある。
そのためには、デザイナーもより上流レイヤーに、ひいては経営レイヤーにまで踏み込んでいかなければならない。
この考え方そのものには、わたしも大賛成だったりする。
良いデザインを生み出すには、その根本的なところにアプローチをかける必要があり、受託構造では踏み込む難易度が高いからだ。
しかしながら、上流レイヤーへ踏み込むときに用いられるようになった「広義のデザイン(組織や事業のデザイン)」という言葉とともに、「狭義のデザイン(いわゆるビジュアル等の制作)」が下に見られがちになっているような印象を受ける。
それは、わたしがTwitterを眺めていて勝手にそう感じているだけかもしれないし、あるいは言葉の慣習からかもしれない。
狭義・広義というと、慣用句としては「心が狭い・広い」のように、狭いよりも広い方が偉いように感じてしまう。
わたし自身は、特に数ヶ月前からマネージャーになったことで、ここで言う広義のデザインの重要性を身に染みて感じるようにはなった。
特に会社員という文脈では、会社が経済活動を通して利益を生み出すことが存在理由であることを鑑みても、広義のデザインの方が重宝されることは言うまでもない。
しかしながら、広義のデザインの方が、狭義のデザインよりも無条件で偉いとは思わない。
むしろ、わたしはデザイナーだからこそ、狭義のデザインが広義のデザインに勝ることもありうるという可能性を信じている。
思えば、狭義のデザイン・広義のデザインというのも、何を持って狭義・広義とするかは基準によって異なる。
例えば、これはデザイナーにしか分からない感覚かもしれないが、文字組やロゴの微調整といった作業は物理的には狭いことかもしれない。
しかし、その奥深さは尋常ではなく、それだけでも小宇宙が広がっていると言っても過言ではない。
要するに、わたしがTwitterで観測した狭義・広義に関する議論は、会社という文脈の中での基準であると理解すれば良いのだろう。
ただし、それを理解せずに無条件で広義のデザインの方が偉いという言説が広まってしまうと、あまり良くないのではないかと思う。
何を持って狭義・広義とするのかは、あくまでも自分の基準として持っていればいいし、周りの声を気にしすぎてはいけない。
さて最後に、そんなモヤモヤを会社の同僚に話してみたところ「ミクロとマクロって呼んだらいいんじゃないですかね?」と返してくれたのだが、天才かと思った。
デザインを狭義・広義で分けられると、広義の方が無条件に偉そうな感じがするのでムカついていたが、ミクロ・マクロという呼び方にするとフラットな感じが出て良い…。マイクロインタラクションとか言うしな。
— tamu (@tamusan100) 2019年12月10日
先ほど述べたように、狭義・広義と言われると、わたしが想起する慣用句から「広義」の方が無条件に偉いように感じてしまっていた。
しかし、ミクロ・マクロという言い方をすると、どちらもフラットな概念のように感じられるのでモヤモヤしない。
例えば、マイクロインタラクションという概念があったりするが、とてもカッコいい言葉ではないか。
今後はそれでいきたいと思う。
何だか自分で書いていてバカバカしくなってしまった。オチということで。