Tortoise Shell

Webサービスの会社で働くデザイナーが、デザインやライフハックについてゆるく書き連ねるブログです。

デザインにおける制約の捉え方

デザインにおける制約の捉え方について、しばしば思いを巡らせる時がある。

制約とは、つまるところ、自分の中で基準にしている物差しに過ぎない。

グラフィックデザイナーが、紙のデザインに比べて、Webデザインは自由度が低いと言うのを耳にする。

実際に、フォント選定やレイアウト、あるいは文字詰めなどは、Web上の表現も随分進化してきたとはいえ、紙と比べれば劣るだろう。

しかし、これはグラフィックデザインを軸にWebデザインを見ているからであって、視点を変えるとどうなるか。

Webデザインに比べて、紙のデザインでは、アニメーションも自由に付けられないし動的な操作も受け付けない。

これは、明らかに自由度が低いといっても過言ではない。

だが、紙と同じ感覚でWebデザインに臨むグラフィックデザイナーは、そもそも動性を付ける発想に至らない。

これはどんな分野にも当てはまるのだが、歴史の長いものほど観念が定着するため、それが当たり前だと思い込んでしまう。

Webデザイナーが、紙のデザインに対して「アニメーションが付けられないので自由度が低い」と言わないのは、観念が定着しているからだ。

このようにフラットに捉え直すと、デザインの自由度に関しては、ただの視点の違いに過ぎないことが分かる。

プログラミングでも似たような話は転がっていて、静的片付けか動的片付けかで、ポジショントークが繰り広げられている。

こちらも似たような話で、いずれもメリット・デメリットが存在するのだが、自身のパラダイムに照らし合わせて片方を批判するのはよくあることだ。

デザインの話に戻すが、作り手としてのデザイナーだけではなく、受け手としてのユーザーにも似たような話がある。

デザイナーが、いくらデザイン理論的に優れたデザインに変更したとしても、一定のユーザーは「前の方が良かった」と必ず反発する。

前のデザインが、役所のシステムのような、ひどく使いづらく美しくないものだったとしてもだ。

つまるところ、人は慣れているものを一番使いやすいと感じ、また優れていると思い込むのだ。

これらの観点から、わたしは、デザインにおける制約を「ゲームルール」と捉えることにしている。

ルールがあるからこそゲームは楽しいのであって、ルール無きゲームなど、ただのカオスであり「クソゲー」であると。

そうは言っても、ゲームルールの設定や厳しさに好みがあることは、わたし自身も否めない。

ゲームルールとは言っても、どこまでをルールと捉えるのか、その境界線はひどく曖昧だ。

例えば、アクセシビリティ的な観点から色などが制限されることに、理屈では納得していても感情的に抵抗のある自分がいる。

それは、わたし自身のパラダイムが「制約」と捉えてしまっていることが原因で、リテラシーの有無も関わっているのかもしれない。

制約の中には、動かせないものをあれば、実は動かせるものもある。

制約を「ゲームルール」とポジティブに捉えて昇華させる一方で、隙あらばゲームルールから変えてやろうとするトリックスター性も大切にしたい。

ゲームのメタファーを用いるなら、プレイヤーとして純粋にゲームを楽しみながらも、どこかに抜け穴がないかを探すデバッガーのようなものかもしれない。

ここまで、デザインにおける制約の捉え方について話してきたが、わたしも感情的には反発することがある。

例えば「デザインにおいて制約は味方です」みたいなことをデザイナーではない人から言われると少し腹が立つ。

イメージ的には、お客さんの方から「お客様は神様なんだろ?」と言われているような気分になるからだ。

偉そうなことを書いてきておいて、わたしも、全然大人にはなりきれていないのだ。

最後に、ありきたりだが次の文章を引用して、締めたいと思う。

主よ、
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え。

ニーバーの祈り

引用: Laudate | 祈りのひととき