Tortoise Shell

デザイン、システム開発、ライフハックについてゆるく書きます

暇について

暇と退屈の倫理学を読んでいる。

暇や退屈という概念は、どこから登場したのか。人類は、それらとどう向き合ってきたのか、詳しく論じられている。

読んでいる中で、暇との向き合い方で刺さる箇所がいくつかあった。

「豊かな社会」を手に入れたいま、私たちは日々の労働以外の何に向かっているのか? 結局、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないか。

有閑階級、正確に言うと 有閑階級の伝統をもつ者たち は、 暇を生きる術を知っていた。彼らは品位あふれる仕方で、暇な時間を生きることができた。それに対し、新しい有閑階級は暇を生きる術を知らない。彼らは 暇だったことがない から。彼らは金のためにあくせく働いてきた。だから彼ら新しい有閑階級は「品位あふれる閑暇」を知らない。 有閑階級の伝統をもたない から。よって暇になるとどうしたらいいのかが分からない。

わたしの将来的なビジョンの1つとして、あまり働きたくない、というのがある。なぜなら、自由な時間を持ちたいからだ。そのためにキャリアを組み立てようとしている。実際に、今月からフリーランスに転向し、以前よりは柔軟な働き方を実現できている。

しかし、求めていた暇(自由な時間)に不自由しなくなった時、わたしは何をしたいのだろう。本当にしたいことがあるのだろうか。

仮に宝くじが当たったとする。とりあえず、法人を作って、不動産を買う。家賃収入で生きていける状態を作る。そしたら、好きなだけゲームをするのか。読書するのか。趣味に打ち込むのか。結局飽きて、何かしら働く気がしている。転職する時の、1ヶ月程度の有休消化期間ですら、後半には飽きてくるのだから。仕事で適度なストレスにさらされても、いつでも辞められる選択肢を持っているので、良い温度感で仕事に打ち込めるだろう。

つまり、最終形態として、結局はちょこっと仕事をして、適度に遊んで、という状態になる。そうなると、実は理想の生活というのは、完璧ではないにしろ既に叶えられていて、あとはこの状態を盤石なものとする経済基盤を作れば良いことになる。

ただし、宝くじを買うこともないし、当たることもないので、基本的には経済基盤作りを目指し続けることになり、まだ深刻に悩むほどには、暇との向き合い方を考えなくて済んでいる。しかし、結局、最後には暇とどう向き合うか。そもそも、自由な時間を手に入れて何をしたかったのか。それは、本当に自分がしたいことなのか。外部からの刺激によって、そう思い込んでいるだけではないか。だとすれば、何のために生きているのか。という問いと向き合わざるを得なくなるだろう。

自由を手にした先には、暇との対決が待っている。